【ドラマ】「空から降る一億の星」は日本版が今見るととにかく凄い!

2022年4月23日土曜日

AmazonPrime ドラマ 日本

t f B! P L


韓国版を見て、改めて日本版を見てみた

「空から降る一億の星」は、明石家さんまさん、木村拓哉さん、深津絵里さん主演の2002年のドラマ。若い頃の柴咲コウさんも出ています。脚本は、北川悦吏子さん。

20年前のドラマなので古さは否めないですが、名作と呼ばれるだけあって改めて見返してみると本当に素晴らしい!最近のドラマでここまで作り込まれたドラマはなかなかないので久しぶりに感動してしまいました。

なぜ2022年にこの作品を紹介しているかと言うと、先日韓国版の空から降る一億の星を見たのですが、どうもピンとこず、日本版もこんな感じだったっけ?と疑問に思って20年ぶりに見返したのがきっかけです。



あらすじ

三田の女子大学生殺人事件を追う刑事の堂島完三(明石家さんま)は、妹の優子(深津絵里)の友達の美羽(井川遥)の誕生日が行われた船上パーティーで、コック見習いの片瀬涼(木村拓哉)の目に違和感を覚え犯人ではないかと目をつける。

涼(木村拓哉)は美羽(井川遥)の気持ちを惹きつけトラブルに巻き込んでいく。最初は反発していた優子(深津絵里)だったが次第に涼に惹かれていってしまう。

完三(明石家さんま)は、涼が言葉巧みに女性を巻き込み犯罪を犯すように仕向けているのではないかと疑う。完三は美羽や優子を涼に近づけないように奔走するのだが。




本作のキモは「明さと暗さ」


片瀬涼(木村拓哉)は、「見た目は天使で中身が悪魔」と言われるような男性で、この主人公の異常性(ソシオパス性)を際立たせるためには、物語全体のコントラストを強くして明るい部分をめいいっぱい明るくして、暗い部分の影を明確にする必要があります。

そこで生きてくるのが、明石家さんまさんと深津絵里さんの兄妹が見せるくだらなくてテンポの良い会話。
たぶんここ、さんまさんのアドリブなんだろうなと思うようなタイミングも深津絵里さんの見事な返しがあり、物語の「明」の部分を力強く引っ張っていってくれる。
その他にも、さんまさんが事件現場で勝手にいろんな物触って怒られているシーンだったり、森下愛子さんとのやりとりだったりでこの物語の「明」の部分を作っていきます。




一方で、片瀬涼(木村拓哉)は常に目が暗い
涼は、幼い頃に両親をなくし愛情を知らずに育ったソシオパス(ここでは後天的に人の痛みを感じられなくなった人という意味で使っています)で、自分には神様がいないから自分が神様になるしかなかったと言っているような男です。

彼にとって神様になるとは、言葉巧みに人を騙して自分の意のままに操ることで、ゲームのように人を操ることだけが生きている証。そんな暗くてどうしようもない片瀬涼が、明るい完三や優子の光に触れて少しづつ人間らしくなっていく。

本作はこの「明るさ」と「暗さ」を様々な形でくっきりと表現することで、家族の形や愛情の形、生と死、異常性など、暗くなりがちなテーマを星のようにキラキラと表現してくれる作品です。


韓国版の何にモヤモヤしてしまうのか?

韓国版も主演のふたりの演技が絶賛される素晴らしい作品なのですが、個人的には見ていてどうしてもモヤモヤしてしまいました。
その理由を自分なりに考えてみました。




理由その1

日本版の内容を知っているからミステリー要素には惹かれない。

これは仕方ないことなので韓国版を作った人たちのせいではないのですが、どうしてもミステリーである以上、「えっ?誰が犯人なの?」と思いながら見たいのですが、全部答えをわかっている状態でみるのはちょっとつらい。できれば日本版を知らない状態で見たかった。



理由その2

テンポが悪い

これも、日本版を知っているからという背景が大きいのではじめて韓国版を見た人には関係ないかもしれませんが、韓国版は全16回で知っている内容を間延びした形で放送されるので全体的にのぺっとしてしまう
長い話数は韓国ドラマの良いところのはずが本作については逆に作用してしまっている部分が大きいかと。

どうせ話数を増やすならば、日本版では描かれなかった登場人物たちの背景などをもっと丁寧に描くかミステリーの要素をもっと多重的に重ねても良かったかと思いますが韓国版はその時間をふたりのラブラブな時間に使ってしまったように思います。


理由その3

明暗差が少ない

本作のキモとして書かせてもらったように、本作が訴えたいことを訴えるためには、絶対条件として、片瀬涼(木村拓哉)の暗さの反対側にいる完三(明石家さんま)の明るさを強く打ち出す必要があるのですが、韓国版ではソ・イングクさんの相手役であるパク・ソンウンさんまで暗くなってしまっていて、コントラストがおかしな事になってしまっている。話数が多いのと相まって全体がのっぺりとしてしまっています。




理由その4

一番大事な設定を変えてしまっている

韓国版では、片瀬涼(木村拓哉)と優子(深津絵里)は実の兄妹である、という一番大事な設定を変えてしまっています。

ここが韓国版と日本版での一番大きな違いだと思うのですが、韓国版では、キム・ムヨン(ソ・イングク)とユ・ジンガン(チョン・ソミン)は実の兄妹ではありません。
本作の一番大事なところなのになぜ!?と思ってしまう。




この設定って、「実の兄妹なのに愛し合うの!?(体の関係含めて)」
とかそういうことじゃなくて、
  • 血のつながった家族(兄妹)である、涼と優子
  • 血のつながらない家族(兄妹)である、完三と優子
この2つの家族を中心に、
  • 「血の繋がりってなんなの?」
  • 「愛情ってなんなの?(男女の恋愛だけでなく人が人を愛するって?)」
  • 「家族ってなんなの?」
  • 「兄と妹ってなんなの?」
というテーマにそって、様々な事件がおきるというものなのでその前提がなくなってしまうと、結局この作品で何が言いたかったの?ということになっちゃう。

単なるソシオパスに唯一愛された女の話になってしまう。



理由その5

親を思い過ぎている。

主人公の男は愛情を受けずに育って他人の痛みがわからずソシオパスである。と言うのが大前提のお話で、唯一、完三と優子の光だけが涼を人間らしくしていく。

と言う条件があるのに関わらず、韓国版では両親の事がわかった時に普通の人のように泣いたり思い悩んだりします。

これは、韓国だから仕方ないところもあるのかも知れないですが、両親の話しはいらなかったかと思います。

これをやってしまうとこれまで人を人とも思わずゲームの駒として殺してきた行動の説明がつかなくなってしまう。
光を当てる方向は一つにしないとドンドン輪郭がボヤけてしまいます。




理由その6

しゃべりすぎ


韓国版は、最終回に近づくに連れてまるで視聴者に説明してくれているようにいろんな設定だったり主人公2人の気持ちだったりをしゃべりまくります。
時代や国の特性があるのかも知れませんが、この物語の明暗さと共に大事な、「伝わらない」事で起きる様々な葛藤がいきなりなくなってしまう。

日本版では最後まで優子は涼を誤解していて相手が死んだ後、手紙で相手の気持ちを知ってしまったりお互いの関係を知ったりします。
全てを知った後に、優子(深津絵里)が片瀬涼(木村拓哉)を背負いながら湖まで連れて行くシーンが入るのですが、この背負い方が恋人を思いながら背負うのと兄妹を背負うどちらでも取れるような絶妙な背負い方でズリズリと歩くわけです。

韓国版のように死にそうになりながら愛の言葉を吐いている場合ではなくて、自分達の最後の場所へ自分達の手と足で向かっていく。数奇な運命を思い返して泣きながら。そこに幼い頃に見た鳥居が見えて、あの頃へ帰ろうとするかのように優子は湖へ船を出す。ここセリフ一切ないんですよね。

暗い湖の上で、にっこり笑って「お兄ちゃんごめんね」とだけ言って死んでしまう。
ここではまだ、星は描かれない。あくまでも、暗い淋しい湖の上で、ゆらゆらと船が揺れるだけ。

このあとのシーンで、さんまさんが言う。
「見てみい。こんな時、こんな日に空から降る星は綺麗やなぁ。」
言葉はね、一人一人の頭の中で作ればいいんです。




理由その7

余韻がない

韓国版ではラスト死んでおしまい。
のような感じなのですが、日本版は2人が死んでからも少しだけ後日談があります。

その中では、柴咲コウさんが自首するシーンがあり、完三さんが「いろいろ寂しなってな」と言うシーンがあります。それに対して柴咲コウさんが私が出所してくるまで死なないでと言います。

完三からすれば、自分が刑事に成り立ての頃に殺してしまった人の息子と娘との25年にも及ぶ物語が終わり、刑事としてももう辞めようとしている時。
死んでしまいたくなってしまっても仕方ないくらい悲しいタイミングです。

ここで、坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」が流れます。これ、意味わかりますか?

私はこんな風に解釈しました。
明石家さんまさんと言えば、日航機墜落事故のひとつ前の便に飛行機を変えて死なずに済み、それ以来「生きてるだけでまるもうけ」と言うのが座右の銘になり娘に「いまる」と付けた事でも有名です。

その墜落した飛行機に乗って命を落としてしまったのが坂本九さんです。

最後までそこに星が輝いている事にすら気づけなかった涼と、そんな涼を思い自らも暗い湖の上で命を落としてしまった優子。2人が倒れている船の上には無数の星が降り注いでいた。

そんなふたりに星を見せてあげたいと言う思いと、自分自身も死んでしまいたくなるくらい辛い時に、坂本九さんの歌をかける事で生きているだけでまるもうけなんだと言う事を視聴者に伝えたさんまさんの演出。
なんとなく、このシーンには脚本家や演出家の思いだけでなくさんまさんの思いが載っているような気がしてなりません。



最後にさんまさんが笑うシーンがあって、えっ!?あれどう言う意味?さんまさんが本当はサイコパスだったの?とざわざわしたものですが、みなさんはどう思いますか?

少なくとも、日本版は2人が死んでからもこれだけ多くの事をやってから終わらせているわけで、2人がラブラブで死にましたでは終われない物語なのです。


韓国版を見たから気づいた物語の設定


韓国版のモヤモヤポイントを多く挙げてしまいましたが、韓国版があったからこそ日本版では語られなかった設定にも気づく事ができました。

涼または、ムヨンがソシオパスになった理由

韓国版では、ムヨンが子供の頃の話しが描かれています。
その中で、ムヨンは誰よりも純粋で真っ直ぐな瞳を持っていたとして描かれます。

釣りを見て不思議がるシーンがあります。
何故釣った魚を池に返すの?とムヨンが聞くと大人が魚もウチに帰りたいだろう?と答えます。ムヨンには良くわからない。だったら何故魚を釣ったりするのだろう?
魚を傷つけて楽しんで最後は偽善的に池に返すってそんなおぞましい行為を繰り返している大人ってなんなんだろう?と不思議に思う。

これ、ものすごくわかる。
食べるために仕方なく釣るのならばまだ意味はわかるのですが、趣味で魚を傷つけて楽しんでいる人間ってかなりおぞましい。猟奇的な殺戮が繰り返されているのに笑っている大人って。私も釣りをする人たちを見て全く同じ事を感じてました。



このエピソードを見てはじめて気づいたのですが、日本版も美羽(井川遥)が殺人を犯してしまうシーンで使われるのが猟銃です。

私自身狩猟をやらないので詳しくはわかりませんが、一般的なイメージとしてはお金持ちが趣味でイノシシなどを殺すために所有しているのではないかと想像します。
おそらく、このシーンでもそのイメージで使われていて、片瀬涼(木村拓哉)も美羽を庇うふりして追い込む時にこの猟銃を持って打つマネをして苦笑いします。
涼にとっては、猟銃で生き物を追いかけて殺している金持ち達の猟奇的な行為こそ理解でない世界なのではないでしょうか。


結論

このドラマに限っては、脚本や演出に関しては日本版が圧勝な気がします。
やはり2000年前後の日本のドラマは桁違いに良いドラマが多い。

脚本家の北川さんがTwitterで呟いておりましたが、本作のタイトルをどうしてこれにしたのかは良く覚えていないとの事。でも当時はいろんな人にダメ出しされたけだ凄くこだわっていた記憶があるとのこと。




解釈は人それぞれですが、私はタイトルにもあるように、星のようにキラキラした人たちとそうなれなかった暗い湖の底にいるような人たちが出会って、そこにどんなに悲しい現実があっても、その瞬間だけは光と影が綺麗な景色を作るような世界であって欲しいと願う物語なんだと思います。

そう言う意味でラストは、あの湖と星のシーンでなければいけなかったし、坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」でなければいけなかった。

日本版を20年ぶりに見返しましたが、本当に素晴らしい作品だし、何よりさんまさんと深津絵里さんの演技がヤバいです。

気になった方は、韓国版は現在Amazonプライムで見れます。

日本版は残念ながらレンタルまたは購入しか出来ないようでした。




最後に

韓国版を批判するようなこともたくさん書いてしまいましたが、韓国版も間違いなく面白く、最後は涙なくして見れない作品です。
韓国版の素晴らしいのは、主人公のふたりが実は再度登場する作品があります。

「アビス」という作品で、制作陣が同じとのことでカメオ出演が実現したのだそう。


最初見た時ちょっと感動してしまいました。
アビスも素晴らしい作品でNetflixで見れますので、まだの方はぜひ。








このブログを検索

最近のTOP10

QooQ