【Netflix】「二十五、二十一」の最終回はどうあるべきだったのか勝手に妄想する

2022年4月24日日曜日

Netflix ドラマ

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賛否ある最終回

二十五、二十一の最終回が2022年4月3日に放送されましたがもう見ましたか?

こちらで最終回前に最終回を考察しましたが、結果として最もこうなって欲しくないパターンになってしまいました。正直、個人的にはスッキリしない最終回でした。



見終わってからだいぶ経つのでそろそろ気持ちを落ち着かせて、何故スッキリしないのかどうだったらスッキリしたのかを考えてみたいと思います。

僕らはやっぱりハッピーエンドが大好き!

今回、どうして最終回の内容にスッキリしなかったのか理由をあれこれ考えたのですが、結局一言で言うと、僕らはハッピーエンドが大好きで、二十五二十一の最終回は、少なくても僕らが欲しかったハッピーの形ではなかったと言う事に尽きるのではないかと言う結論にいきつきました。

年を重ねれば重ねるほど、ドラマや映画など虚構の世界に求めるのは、いかに現実的か?と言う事ではなく、いかに夢をみさせてくれて幸せな気持ちにしてくれるか?の比重が大きくなるように思います。

僕らにとってのハッピーエンドって何?

Twitterの反応を見ていると、多くの人がペク・イジンとナ・ヒドが結婚し子供が産まれているという結論を求めていたのではないかと思います。

子供の苗字がペクではなくキムだったり、子供がペク・イジンの事を知らなかったりなど、父親がペク・イジンではない事を示す事象が多くありました。

とは言えいろんな理由からそうなっているだけで、最後はペクイジンと結婚するんでしょ?と思いたかったし、見ている人がそう思ってしまうほど、ペクイジンとナヒドの2人が素敵なカップルだった。
だからこそ、多くの人がなんとか2人の未来が明るいものになるような考察を繰り返していたのではないでしょうか。


僕らが望んだハッピーエンドではないとしても

結果的には、僕らが望んだハッピーエンドとは程遠い最終回になってしまいましたが、とは言え、別にそれはそれとして作品なので作り手の意図でもちろん構わないわけで。
そんな事にいちいちガッカリしていたらドラマや映画なんて見れない。では、何故今回こんなにもスッキリしないのでしょうか。

散々考えたのですが、私としては「この終わり方にするならもっと前にいろんなやり方があったのでは?」と言う思いに尽きるなと思いました。


どんな締めくくりなら満足出来たのか?

では、いったい私たちはどんな物語の終わり方なら満足出来たのでしょうか。
もちろん、2人がパッピーな結論ではない前提で。

ナ・ヒドには元気で前を向いていて欲しい

二十五二十一の一番大事な事は、キムテリさん演じるナヒドがとにかく元気で前向きである事ではないかと思います。

突然ペク・イジン以外の彼氏を作っていたりその理由が別れを経験してみたかったからとか意味のわからないの行動に出る事はありますが、全てがとにかく元気いっぱいで嫌味がない。この物語において、ここだけは崩してはいけない要素なのではないかと思います。

なのに、41歳になったナ・ヒドはキム・テリさんではなく、キム・ソヒョンさんが演じているのですが、最後まで別人にしか見えない。

若い頃のぴょんぴょん跳ねるように歩きとにかく前を向いて突き進むナ・ヒドに対して、41歳になったナヒドは椅子にヤスリをかける毎日を過ごしているのですが、そこがどうしても繋がらない。



自身が40歳を超えている方ならわかると思いますが、事故にあったとか病気になったとかよほどの事がない限り人間はそんな風には変わらない。

若い頃のナ・ヒドは、歳とって落ち着いたとしても例えば椅子にヤスリをかけた後に海を眺めながらコーヒー飲んでニコニコしたり、ジョギングしたりなど小さな事でも毎日の生活をもっと前を向いて生きているはず。

本作の大人のナ・ヒドの演出ではナ・ヒドがものすごく不幸な人生を送っているように感じてしまいます。
しかし、その不幸は説明されない。

ペク・イジンとの別れがあったとしても、もしそれが理由なら今の旦那に凄く失礼ですし、人は人との別れだけでそんな風にはならない。

ペク・イジンと別れると言う事が決まっていたならばなおさら現在のナ・ヒドはもっと元気で前を向いて生きている姿を映し続けないと希望がない。
これじゃあ、若い頃の楽しい思い出終わったら人生終わりみたいです。

また、どうせ別れるならば13話目くらいまでにはその話しを終わらせて14話から16話は、例えばコ・ユリムと一緒にフェンシング教えている姿を映したり、思い出の海に子供といったり、旦那がナ・ヒドを支えてくれた思い出を映したりなど、過去は過去としてそこから新しく今の自分を作ってくれた再生の物語を入れるべきだったのではないでしょうか。


コ・ユリム含めた過去の友達との交流がなさすぎる

あれだけキラキラした20代を過ごしたのに関わらず、大人になったナヒドはコ・ユリム含めた友達と交流がなさすぎる。

疎遠になる事もあるかもしれないけど、物語の本筋として「歳をとると全てが虚しい」と言う事を描きたかったわけではなく、どんなに完璧に見える大人だって若い頃には悩み苦しんで、その苦しみの中にこそキラキラした思い出が出来ると言うことを描きたかったのだとしたら、現在を虚しくする必要は全くない。

そう考えると、やっぱり現在のナヒドがあまりに虚しい。その演出に意味があるならまだしも、作品を見る限り意図せずそう映ってしまっているようにしか見えない。



その時代を生きてきた全ての人たちに


ペク・イジンもナ・ヒドもドンピシャ同じ歳くらいですし、日本と韓国という違いはありますが、きっと同じような時代を生きてきたのだと思います。
本作の素晴らしいところは、若い人たちの物語を描きながら、そういった古い世代の物語でもあると言う事かと思います。

携帯電話やスマートフォンなんて無かったし、マスメディアの言う事は間違いがないと思っていたし、社会のルールに沿って生きなければ生きていけないと本気で信じていた時代。

今ならペク・イジンだって全然別な判断をする余地があったろうし、ナ・ヒドだって、心が離れる意外の選択肢があったかもしれない。
でも、あの時代、あの年代。あの空気の中では、きっとあの選択肢しかないように思ってしまった。それは痛いほど良くわかります。




それも含めて、あえて本作はあの時代を象徴する行動としてスッキリさせない結末を持ってきたのだろうと思います。おそらく、若い人には理解出来ないくらい面倒な時代だったのです。昔は。

でも、だからこそ、どうなんでしょうか?

同年代としては、物語なんだからもう少し現実に即してなくていいからハッピーな物語にしてほしかったな、というのが本音です。

これを書くために数週間ぶりに最終回見ましたが、正直、これまで最終回を見返すことが出来ないほどショックで。でも見返してみると最初に見た時感じたほどひどい終わり方ではなく、ところどころ希望に満ちた言葉もあり、私がペク・イジンとナ・ヒドを好き過ぎてそのショックのあまり、物語が入ってこなかっただけという側面もかなりありました。

いずれにしても、本当に素晴らしい作品で、「その年、私たちは」に続いて毎週楽しみで仕方なかった作品です。
楽しかった。


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