【書評】自動車の社会的費用

2021年6月8日火曜日

経済 仕事

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結論

本書は1974年に初版が発行されているので、もう47年も前の本です。

MaaSという概念が立ち上がり、その中のひとつとして、自動運転が実用化しようとしている2021年において、今いちど、自動車がもたらす「社会的費用」についてきちんと考えるべき時ではないでしょうか?

車の社会的費用とはなにか

本書の一節を引用します。

このようにさまざまな社会的問題を惹き起こしながら、
つぎからつぎに道路が拡大され、あるいは新しく建設されて、
自動車の保有台数がふえてきたのはなぜであろうか。
 
さきにふれたように、そのもっとも大きな要因は、
自動車通行によって第三者に大きな被害を与え、希少な社会的資源を使いながら、それらに対してほとんど代価を支払わなくともよかった、ということをあげることができる。
 
すなわち、本来、自動車の所有者あるいは運転者が負担しなければならないはずであったこれらの社会的費用を、歩行者や住民に転嫁して自らはわずかな代価を支払うだけで自動車を利用することができたために、人々は自動車を利用すればするほど利益を得ることになって、自動車に対する需要が増大してきたのだ、ということができよう。
 
そして、自動車の保有台数が増加して、道路が混雑してきたときに、道路を拡大し、また建設し、そのキャパシティを大きくすることで混雑現象を解決しようとしてきたため、自動車通行がますます便利なものとなり、自動車の保有台数がさらにいっそう増加し、また道路が混雑してゆくという悪循環を生み出してきたのである。
 
この道路建設と自動車保有台数の拡大という悪循環のプロセスを通じて、交通事故はふえ、公害現象は年々悪化し、歩行者・住民の受ける被害が加速度的に大きくなってきたといえよう。

この悪循環の鎖を断ち切るためには、自動車通行によって発生する社会的費用を自動車を利用する人々が負担するという本来の立場にたち返ることが、まずなによりも重要なことになってくる。
そこで自動車通行にともなっておきてくる社会的費用を正確にはどのようにと計測したらよいであろうかということが問題となってくる。

こんなに危険な物体が体の横をすり抜けていく日本

私もずっと車についてはモヤモヤしていました。
 
なんで、こんなに危険な物体が我が物顔で動いていて、それを全く信用できない人間なんていう生き物が操作している状態って、きっと未来から見たら正気の沙汰ではないですよね。

わたくしは十年間ほど外国にいて、数年前に帰国したが、
そのときに受けたショックからまだ立ち直ることができないでいる。
 
はじめて東京の街を歩いたときに、わたくしたちのすぐ近くを疾走する乗用車、
トラックの風圧を受けながら、足がすくんでしまったことがある。
 
東京の生活になれるにつれて、その恐怖感は少しずつうすれていったが、いまでも道を歩い
ているとき、自動車が近くを追い越したりすると、そのときの恐怖感がよみがえってくる。
 
子どもたちはじきになれてしまって、あまり苦にしなくなったようであるが、
毎日学校から帰ってくるまで、交通事故にあわないかと心配することが
現在までつづいている。
 
これはわたくしがとくに臆病だということよりは、
日本における自動車通行のあり方が、
世界のどのような国に比べても、歩行者にとって危険なものとなっているからである。
日本で、とくに大都市で育って、生活している人たちにとっては、いつの間にか現在のような自動車通行のあり方は当然のこととおもわれるようになっているかもしれない。

参考図書



今週の気になったニュース


自動運転の実験のほとんどは、シミュレーターを用いてコンピューターの中で行われます。
ありとあらゆる状況を想定し、このパターンであれば問題なく走行できるなど膨大なシュミレーションを繰り返します。
当たり前ですが、すべての車が自動運転になれば(正直人間なんてノイズなので早く運転やめてほしいくらい)信号で止まることもなく動くことも可能になる。
そもそも信号なんてものもいらないのかもしれないけど、今のところある前提でシュミレーションしている。
あらゆる分野で、一番いらないのは人間で、人間がひとりでもいるとすべての制御が狂うということが起きそうです。

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