第十一話「僕らの夜はあなたの昼より美しい」
オマージュ映画の概要
映画のあらすじ
フランス映画。幼い頃、両親の衝撃的な死に直面し、しゃべり続ける事をやめられないリュカと、超能力者のブランシュ。ふたりは恋に落ち激しく愛し合うが、ふたりの愛はやがて死に向かう事になる。
第十話のあらすじ
第一話のあらすじはこちらから。
第二話のあらすじはこちらから。
第七話のあらすじはこちらから。
第十話のあらすじはこちらから。
ヨンスの家でおばあちゃんと一緒に御飯をごちそうになったウン。
「僕たちは友達になれる。」
と言い残して帰り、ヨンスが悲しい気持ちになっていたころ、
ウンも自分の行動について見つめ直していた。
昔近所の文房具屋に飼われていた犬のチョンチョン。
チョンチョンは、幼い頃に捨てられて文房具屋の店主に拾われて飼われていた。
捨てられたトラウマから、外に出るのが怖くなってしまい散歩の時にも店主に抱っこをされないと外に出ない。
ウンは、自身も幼い頃に親に捨てられた経験から再び「捨てられる」ことに人一倍の恐怖を抱えており、ヨンスとの関係を「友達」にすることで、もう二度と捨てられることがないように逃げていた。
NJとの熱愛報道の影響でバタバタしているウン。
ウンの身体が心配なヨンスは、ナツメ茶を作るためにナツメを大量に買ってウンの家に行くがウン留守で、NJがウンを待っていた。
NJは、ヨンスに「私達の関係は報道のとおりよ。と言おうと思ったけど悪趣味過ぎて言えない。ここで争っても意味ないし。邪魔者でないならわたしはわたしで頑張ります。」と伝える。
ヨンスは、「私が止めても身は引かないでしょう?」と聞く。
毎年秋になると、ウンの両親は死んでしまった本当のわが子のために地方へ行く。
ウンは、その事を知っていながら両親にその話をしたことはない。
毎年その時にはなるとウンはひとりでふらっといなくなってしまう。
ドキュメンタリーの撮影最終日当日、ウンはふらっといなくなってしまう。
ウンを探すヨンス。
ウンはチョンチョンがどうしているのか探しに行く。
チョンチョンは、幼少期のトラウマを自分で克服して元気に散歩できるようになっていた。
ウンは「この裏切り者め!」とチョンチョンに言う。
帰り道、ウンはヨンスのおばあちゃんに遭遇する。
ヨンスのおばあちゃんの荷物を運ぶため、ヨンスの家に行くとそこには大量のナツメが干してある。ウンはヨンスの優しさに気づき自分は何をやっているのかと思う。
おばあちゃんはウンに言う。
「ヨンスがあんたを傷つけたとしたら全部わたしのせいなの。貧乏な家庭で自分勝手に育ててしまった。だからもしあの子に怒っているなら私にぶつけて。あの子を恨まないで。」
「ヨンスは違います。そんな人ではありません。本当にいい人です。僕にはもったいないほど」
「そんなによくわかっているなら何をしているの?」
「そうですね。自覚はしていたけど、今日は本当に自分が情けないです。」
ヨンスは、ウンの席に向かい合って座る。
ヨンスがウンに言う。
「友達になろうって言ったよね」
「考えてみたんだけど、わたしには無理。」
「友達がイヤと言うより、私は、あなたが、、」
ウンはヨンスの話を遮って話す。
「会いたかった。ククヨンス。いつも会いたいと思っていた。ずっと。」
「君が戻ってきた時、目の前にいる君に何故か腹が立って、憎かった。」
「でもわかった気がする。僕は、君に愛されたいんだ。僕だけを愛してくれる君に会いたかったんだ。」
「ヨンス。僕を愛して欲しい。二度と離さずに。ずっと、愛してくれ。お願いだ。」
お互いの気持ちを確認したウンは帰り道ヨンスに言う。
「ヨンス。このビルの屋上を見るにはどうすれば?こうやって寝転ぶんだって。」
「どこのバカがそんなことを?」
「父さんだ。」
「さすが賢明な方だわ。」
ふたりは道端に寝転ぶ。
「見えないわ。」
「だろ。僕もそういったんだ。」
「いつの話?」
「5歳か6歳か」
「おじさんが悪ふざけを」
「父さんじゃない。実の父親だ。悪ふざけがすぎるよな。幼い子供を道端に寝転ばせて屋上まで数えて見ろだなんて。大きな数字はわからないから1,2、1,2って数えて、起き上がったら父さんはいなくなっていた。」
オマージュ箇所
映画がまだ見れてないのでプロットだけで。
「その年、わたしたちは」では
ウンが幼い頃に父親に捨てられてそのトラウマから、人に捨てられる事を非常に恐れている事が語られます。幼少期のトラウマにどう対処していくかと言う部分は映画とリンクしてそうです。
映画からは外れてしまいますが、このタイトルを見た日本人は村上春樹の風の歌を聴けのセリフ
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」
を思い出す人も多いのではないかと思います。
小説の中では、ニーチェの言葉から引用となっているのですが、これって実はそのままの言葉はニーチェの本にはないって知っていましたか?
私はこれを書くために調べていて知りました。
村上春樹の小説って本当に罪だな。
デレクハートフィールドも実在しないし。
一生懸命調べた子供時代を返してほしい。
ニーチェは、本の中でこう言っています。
甘美な竪琴よ、甘美な竪琴よ。わたしはおまえの調べを愛する、おまえの酔いしれた、ひきがえるの声に似た調ベを愛する。 ーどんなにはるかな昔から、どんなに遠いところから、おまえの調べはわたしにやってくることか、はるかな道を、愛の池から。
おまえ、古い鐘よ、甘美な竪琴よ。あらゆる苦痛がおまえの心臓に打ち込まれた、父の苦痛、父祖の苦痛、太祖の苦痛が。おまえのことばは熟した。
金色の秋と午後のように、わたしの隠栖の心のように、それは熟した。―そしていま、おまえは語る。「世界そのものが熟した、葡萄が色づくように、いまやそれは死のうと願っている、幸福のあまり死のうと願っている」と。
おまえたち高人よ、おまえたちはその匂いを嗅がないか。ひそかに湧きのぼってくる匂いを。
永遠の香り、永遠の匂いを。古い幸福の匂いを。ばらのように至福な、褐色をおびた黄金の葡萄酒の匂いに似た幸福のその匂いを。
酔いしれた、真夜中の臨終の幸福の匂いが、湧きのぼってくるではないか。その幸福が歌うのだ。
「世界は深い、昼が考えたより深い」と。
だいぶ印象が違うと思いませんか?
村上春樹の本を読んだときには、
あなた(昼)とわたし(夜)の間には、絶対的な溝があってあなた(昼)には、わたし(夜)の苦しみはわからないと言った意味で捉えてしまっていました。
しかし、ニーチェの本ではむしろ、あなた(昼)の側に行きたいと思っていて、わたし(夜)の準備は整った。そろそろ出発する時だと言った流れの中で語られる言葉だと思います。
今までの苦痛や困難含めて幸福で、幸福である以上人は何度でもその時間を繰り返したいと願うものであって、その苦しみや幸福の深さは昼が考えている以上である。
「その年、わたしたちは」でも、ニーチェの言葉のように苦しみを抱えながらもそれをどう克服または同居しながら本当に自分にとって大切な事を選択していくかと言うテーマで扱われているかと思います。
ウンの幼児期のトラウマ。そのせいでヨンスにもう一度付き合おうとは言えない自分。ドキュメンタリーの映像やヨンスのおばあちゃんとの会話を通してヨンスの大切さとその大切な存在に向き合えていない自分を改めて見つめ直す回。そして、ヨンスもまたウンへの気持ちが止められなくなり告白しようとする。
ついにふたりが素直な気持ちを告白しあう。
「友達になろうって言ったよね」
「考えてみたんだけど、わたしには無理。」
「友達がイヤと言うより、私は、あなたが、、」
「会いたかった。ククヨンス。いつも会いたいと思っていた。ずっと。」
「君が戻ってきた時、目の前にいる君に何故か腹が立って、憎かった。」
「でもわかった気がする。僕は、君に愛されたいんだ。僕だけを愛してくれる君に会いたかったんだ。」
「ヨンス。僕を愛して欲しい。二度と離さずに。ずっと、愛してくれ。お願いだ。」
深い闇の中からふたりで一歩踏み出そうとする名場面ではないかと思います。
その他の話については以下から。
リンク